山号を長昌山(ちょうしょうざん)と号し寺号を立源寺(りゅうげんじ)と称す。
寛永元年(一六二四)碑文谷法華寺住僧、遠聲院日運の開基によるもので、新編武蔵風土記稿によると
『この寺も古くは、法華寺の末なりしが、後本寺を改めらる 本尊三宝は長二尺の像なり 是はもと法華寺にありしを当山起立の時より此処にすえたり云々』
とあるが、実際は元禄十一年十一月不受不施法難の直后、法華寺改宗の際この三宝尊を当山へ移されたのが事実である。
この事は諸資料の証明する処であるが、法華寺改宗の際、多くの檀徒が寺籍を移している事等からもうなずける。かつて宗門史の権威故稲田海素師が宗門最高のものと賞讃されている高さ七尺、幅約九尺と云う立派な仏像である。
当山の縁起を語るに就いては、碑文谷法華寺の歴史を顧ねばならない不即不難の関係がある。当山の創建は寛永元年であるから法華寺第十一世日進上人の代である。秀吉の『大仏千僧供養』に端を発して以来京都妙覚寺日奥上人と日進上人が度々弾圧諸政策を蒙り乍らも断乎不受不施を主張して止まなかった頃の事である。
丁度この頃法華寺北之坊に住して不受不施派の学頭若しくは別当的立場に在った日運上人が、この地に隠居所として小庵を結んだのが当山の始まりである。
当時幕府の政策は一般庶民を監察する方便として、檀家制度を強行しているし、宗派や寺院を異にする事も許さなかったし、又事実、新寺建立も禁止していたのである。之等の事は諸資料の明かに示す処であるが、但だ僅かに小庵から山寺にすることは認められた等から察するに、開基遠聲院日運上人は政策に対する一時の方便として小庵を設け、実は不受不施派新寺建立の思いを秘めて、法華寺末として当山を建立したのが事実である。
斯くして当山が不受不施の寺として、その教線を張って来た事は勿論であるが、時恰も元禄十一年(一六九八)十一月、不受不施法難に依って法華寺改宗の翌同十二年一月二十五日、幕府の禁制止むなく身延山直末寺となったのである。
この時の本末盟約授与の御本尊が当山に現存しているが、之に依ると、当時の身延は第三十二世日省上人代で、当山に於ては第四世日周上人である。尚朗師御作の『除厄祖師像』が法華寺から堀之内妙法寺、又三宝尊像が当山へと夫々移置せられたのもこの時である。